2016年7月 2日 (土)

CANNUBI, ALL'ORIGINE DEL NATO DEL BAROLO   

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GAUDI’は言った。『個性や特徴は起源に帰す。』 この言葉のとおり、カンヌビの丘とそのワインを見れば、バローロ神話の真髄がわかる。カンヌビはバローロ最古の畑であり、イタリアワイン醸造において源となる畑といえる。

左の写真はブラの町のManzoneの個人所蔵によるCannubi。 ヴィンテージ1752年のボトル。

1844年貴族Marchesa Colbertのバローロよりも以前に存在し、その頃から既に有名で、最上級クラスの象徴だったことがわかる。

カンヌビ畑は優しいうねりのある丘が南北に伸びている。バローロの旧市街からアルバに向かう2つの道に挟まれている。

標高は220m~320mなので緩やかな傾斜。最良部の方角は南と南東。その他は、東~北東、西~北西向き。

カンヌビという名の起源は葦であると言われている。ブドウの木を支えるのにこの辺りで昔使用していた葦(Canneti)。あるいは、異なる地質が混ざった土壌を意味する交接(Connubio)からとも。

個人的には葦の語源が有力と思われる。

カンヌビはトルトニアーノやセッラヴァリアーニの土壌の合流点ではなく、テッラディバローロの土壌は粘土質の泥灰土であり、時に青みや白グレーを表面に帯びる。



 カンヌビの特徴

同じ地質の他の畑と比較すると、カンヌビは砂質を多く含む。

石灰質はケイ土の含有量が多く、水はけが良い。痩せていて、わずかな粘土質を含む。

気圧の変化や北東からの風から守られて、気候はとても穏やかである。

このような土壌気候により造られるネッビオロは、よりエレガントな味わいで、ブドウは周囲の畑よりも1週間程早く熟す。

しかし、このような気候は10年程前からであって、以前はこんなに優しい気候ではなく、秋一杯熟成を待つ為、雨や湿気、カビによる腐敗リスクも高く、時には雹に降られることもあったので、他のバローロよりも値段が高かった理由も納得できる。

カンヌビのブドウはエレガントなタンニンとバランスの良さ、豊かな風味、長期熟成などの特徴によって、洗練されたワインに仕上げる為に他の畑で造られるワインにブレンドし、使われることがしばしばある。

起源といわれるカンヌビ神話はここにある。多くのバローロ生産者から望まれるミクロゾーンであり、他にはない興奮や野心を駆り立てる。少なくとも5人に1人はカンヌビ畑を所有したいというだろう。

カンヌビ畑の内にも土壌の違いが見られる。ブルゴーニュと似ていると言われるが、多斜面のある丘は方角も多様で、特徴によって畑の区別するのは容易ではない。

カンヌビはほぼ中心に拡がっている。他の4つの畑(Boschis o Monghisolfo,Valletta, San Lorenzo e Muscatel)より高い丘の中心にある。

Fantini(1879年)、Renato Ratti (1976年)、Carlo Petrini(1990年代)を初めとする多くの有名なバローロ生産者が、わずか19ヘクタールのCannubiの中心を所有していた。(Cannubiの外側は47ヘクタール。)

真のカンヌビのワインとそのソットゾーンのワインには明確な違いがあり、ある生産者は各畑の違いを表現することに優位性があるという。

1994年以前はカンヌビは中心部のみであったが、バローロで名を馳せるようになると、カンヌビゾーンは広がった。Cannubiまたは、Cannubi Boschis, Cannubi SanLorenzo, Cannubi Valletta, Cannubi Muscatel。この辺りの畑は上手く醸造すれば、洗練されたCannubiに近づく。

2013年にMeGAの規定により、ラベルにCannubi、またはソットゾーンをCannubi Muscatelなど詳細に記載することができる。

 

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畑の特徴

Cannubi:

中心部にある。砂質が多い土壌。よりエレガントなワインに仕上がる。標高はさまざまで高いところは150m。畑だけでなくワインにも個性が見られる。カンヌビサンロレンツォのワインにやや似ている。

Cannubi San Lorenzo:  

MuscatelとCannubiの間に位置する。名前は黒死病の頃、建てられた教会に由来。標高300mに達する。カンヌビの中で一番標高が高く、風当たりもある。南東向きBusssia方面と南西向きSarmassa方面。柔らかく砂質の土壌。ワインはとてもエレガント。

Cannubi Muscatel:

Baroloの村境からVallettaの間に位置する。フィロキセラ到来以前はネッビオロだけでなく、モスカートも造っていたという。南東と南向き。やや砕けにくい、粘土質が多い土壌。ワインはカンヌビの特徴を残しながらも、熟すのを待たず飲めるタイプ。

Cannubi Boschis:

Alba方面に向かう丘の最後の部分。かつてはMonghisolfoと呼ばれていた。南東と南向き。名前は昔の所有者から取ったそうで、Ghisolfo⇒Boschisと変わっていった。カンヌビより更にバランスのよい、より涼しく、粘土質の豊かな土地。

Cannubi Valletta:

サンロレンツォが西にあり、Cannubiが北、Muscsatelが南にある場所。盆地形状から名前が付いている。北東、南東向き。石灰質と粘土質の土壌はより構造のしっかりとした、丸みのある、カンヌビより香りが控えめなワイン。

*この記事は、雑誌『Barolo&Co.』編集長Giancarlo Montaldo氏のご協力により、2016年3月発行第1号よりMichele Longo氏の記事を日本語にてご紹介。

2016年6月27日 (月)

こんにちわ。IVS Japan代表を務めます松山恭子です。5月にピエモンテを北から南へと周って参りましたので、少しご紹介させて頂きます。

旅は湖水地方から始まります。

ミラノ(マルペンサ空港)から車を走らせると1時間程でマッジョーレ湖のほとりにあるストレーザの町に着く。いくつか乗り場はあるが、Piazza Lidoからボートmotoscafiに乗る。お勧めは3つの島巡り(Isola Bella - Isola Madre -  Isola dei Pescatori).

どの島も5分位で着くほどの距離間で、船酔いする間もない。島と島を繋ぐボートは30分毎に出る。

Isola dei Pescatoriは唯一住民がいる島で、レストランの数も多い。 

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ボート乗り場のすぐ前にRistorante La Pescheria(写真右)がある。気になっていた店だが月曜日は定休日らしい。

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お土産屋さんも充実しており、ショッピングも楽しめます。 本屋ではこのマッジョーレ湖出身の作家Piero Chiaraの本が並ぶ。私はアンティークポスターに惹かれ、3枚程購入。

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小さな島ですから、1周15分程で歩けてしまう。2周ほど散策した後、パノラマの良い、落ち着いた雰囲気のRistorante Belvedereを選んだ。 

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パスタはマッケローニのオリーブ、ツナのソースに、川魚のパン粉をまぶしたグリル、ドルチェはmille foglie フルーツたっぷりミルフィーユ。ワインは良く冷えたアルネイス。

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次はIsola Bellaへ。    

本当に小さな島で、見応えは素晴らしい庭園である。16世紀に購入した

貴族CarloⅢBorromeeが奥様のIsabellaの名前を付けて、Isola Bellaと呼ばれる。

17世紀に入ってこの建物とお庭を造った。

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この階段は藤棚がとても美しい事で知られる。

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Piazza Lidoに戻り、このまま車で20分程の場所にあるもう一つの湖 Orta San Giulioへ。

Stresaはやはり観光客が充実しており、賑わっていましたが、Ortaの方は落ち着いた印象。

後で地元のワイナリーの人に聞くと、Ortaの方が観光客の食文化レベルが高いそうで、Gattinara,Ghemmeのワインも好まれるそうです。 確かにミシュランのレストランもOrtaですね。

次はOrtaへ⇒

16/5/2016  kyoko Matsuyama

2016年6月 9日 (木)

西村先生よりご紹介~秋場美恵子/『文流サローネ』 No.79(2016年3月5日) 

 

 今年2016年は日本とイタリアの間で始めて修好通商条約が結ばれてから150周年になります。イタリアから最初に日本を訪れたのはキリスト教の宣教師達でしたが、両国の間に正式な条約が結ばれたのは江戸幕府が瓦解する直前の1866年のことでした。イタリアもその5年前の1861年に念願の統一を果たしたばかりでしたが、欧州の蚕の病により崩壊寸前に陥った北伊の絹糸産業を救うため日本から良質の蚕種を入手することが早急に必要とされていたのです。

 こうした事情からイタリア政府は日本および中国との間に修好通商条約を結び、併せて現地の実情を文化社会から自然科学にいたるまで広く調査するために一隻の軍艦「マジェンタ号」の派遣を決定します。そしてその指揮を任されたのが海軍中佐のヴィットリオ・アルミニョン(Vittorio Francesco Arminjon, 1830-1897)でした。

 アルミニョンは当時35才、イタリア王家発祥の地サヴォイア(現仏領)の出身でジェノヴァ王立官軍学校を卒業、故郷サヴォイアが伊仏間の条約でフランス領となるに従い仏海軍に所属しますが、イタリア王国成立と共に伊海軍に復帰、フリゲート艦、戦艦艦長、海軍砲術学校長を務め、砲術の優れた著作もあり数ヶ国語に堪能で人格も認められたイタリア海軍きっての秀才でした。当時の外務大臣ラ・マルモラと海軍長官アンジョレッティはそんなアルミニョンに白羽の矢をたて、万国の人民を尊ぶ新生「イタリア」の旗を世界に初めて掲げるに恥じぬ自由と独立と無私の精神を持って極東での修好通商条約を締結してくるよう激励、併せて自然科学の研究成果を目指す大航海を命じます。こうしてアルミニョンは艦長(兼)全権という前例のない大任を受け、著名な自然科学、動物学者のデ・フィリッピ、ジッリオーリ両教授を伴い1865年11月8日ナポリからまず南米のモンテヴィデオ(ウルグアイ)に向い、そこから翌年2月2日にマジェンタ号乗組員345名とともに登用を目指して出航します。

 地理・貴校及び風雲はらむ日本の政情を熟考の上、一路バタヴィア(ジャワ)、シンガポール、サイゴンを経由して遂に下田沖に到ったアルミニョンとマジェンタ号が「水平線上の雲の上にそびえる荘厳なFuji-yama」を目にしたのは1866年7月4日のことでした。それから幕府と約一ヶ月半の交渉を経て8月25日に日伊修好通商条約を調印、11月には中国とも条約締結、通算2年をかけ世界一周を果たした後1868年の春ナポリ港に帰還します。そして翌1869年には条約の交渉過程と日本事情をまとめた労作「日本及びマジェンタ号の航海記」”Il Giappone il viaggio della corvetta Magenta nel 1866.” Genova. Co’ Tipi del R.I. dei Sordo-muti, 1869[1]がジェノヴァ王立聾唖学院から出版され、歴史的価値ある優れた著作として地理学協会から金メダルを授与されます。アルミニョンは生涯それを大変誇りにしていたと言われます。

 さて肝心の日本との条約ですが、まずアルミニョンはナポリ出航前に日本初となる幕府の横須賀製鉄所建設交渉でパリ滞在中だった外国奉行・柴田日向守剛中を訪ね挨拶しています。そして絹糸産業の危機的状況からイタリアが日本の助力を必要としていることを虚心に明かし、純粋に友好と通商を求めて来航予定でいる旨を説明するのです。更に「日本を西洋に紹介したのは一人のイタリア人であった」とマルコ・ポーロから説き、両国の共通点も挙げて日本の美術品には感嘆したと語るアルミニョンの偏見のない態度は細謹な柴田にも好印象を与え、一年後に日本で修好通商条約を締結する2人は出会った初日から一時間も話しこむ程意気投合できたのでした。「柴田と面識のなかった私であるが、今や私は彼の友人(Suo amico)である」きっぱりと述べるアルミニョンからは当時圧倒的な武力を背景に高圧的な態度で日本に臨んでいた列強の公使達とは全く異なる人間性が感じられます。更に彼は海軍図書館から借り出したり自費で集めた日本に関する文献を長い航海中に読破、日本の歴史や文化をしっかりと学んだ上でパリ以来友と頼む幕府側代表の柴田日向守と念願の再会を果たすことになります。「私は友情こめて柴田と握手を交わし、再会できた事を喜ぶとともにパリで論じたと同じ問題について再び話し合うことができるのを満足に思う」と述べた。

 イタリア海軍の軍服のアルミニョンと和装の柴田日向守の江戸再会には心温まるものがありますが、幕府側では基本的には新たな条約締結謝絶の方針であり、折しも母国イタリア・オーストリア間の戦争開始が報じられる中、アルミニョンは密かにマジェンタ号の安全と交渉の行方を憂慮します。しかし「数年前に統一なった意太利國[2]は欧羅巴でも屈指の文武の誉れ高いお国柄、仏との関係もあり即今条約を結んでも日本の損にはならぬ故御英断を」彼と会い実際に交渉に当たっていた柴田他7名の外国奉行達が評議の上揃って声をあげます。同盟国フランスと強調しつつも人種や国籍に拘らず相手を尊重し常に友好的な姿勢で交渉に臨んだ全権アルミニョンの誠意あふれる人間性が外国奉行達を動かしたのでした。

 こうして遂に8月25日江戸大中寺にて幕府側代表柴田日向守、朝比奈甲斐守、牛込忠左衛門(目付)、伊全権アルミニョンの間で日伊修好通商条約が和やかな雰囲気の中で調印されます。奇しくも14代将軍家茂が亡くなる4日前のことでした。「貴殿はわが国の置かれている困難な状況を良く認識せられ、われわれの譲与しうる以上のことを要求されなかった。我々はこのことに深く感謝している。貴殿の誠意ある態度は今後両国間には常に協調関係がありうることを我等に確約するものである。」調印後そう繰り返した柴田達の言葉を2年後ジェノヴァに帰還したアルミニョンは控えめな矜持をこめて書きしるしています「この言葉は私の胸(animo)を深く感動させた。私はこの言葉を信じたし、今もそれが心からのものであると信じている。日本人の心はフランシスコ・ザビエルの当時と少しも変ってはいない。」アルミニョンが柴田達と交わした信頼と友情はその後多くの人々に受け継がれ、第二次世界大戦中に両国がファシズムに陥るという歴史の荒波をも越え、今150年の日伊文化交流の花を豊かに咲かせるに到っています。



[1] 邦訳は「伊國使節幕末日本記」田沼利男氏訳 三学書房/「イタリア使節の幕末見聞記」大久保昭男氏訳 講談社学術文庫

[2] 「続通信全覧」より

2016年6月 7日 (火)

当IVSJapan恒例のイベント「イタリア共和国記念パーティー」が
広尾『アンティキ サポーリ』で開催されました。 

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前代表の故川手さんがプロデュースされたワインを含めて11種類他を皆さんにテイスティング頂きました。お好みのワインに出会えましたでしょうか。

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今回のワインはモンテ物産(株)、アプレブトレーディング(株)、アビコ(有)様のご協力で、イタリアは北から南までスプマンテ、白、赤といろいろ幅広くご提供させて頂くことが出来ました。

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西村先生(この会の監事でもあります)からは、今年日伊通商条約が始まって150周年という歴史を語って頂き、この時代の外交は相手国に対し、尊敬の念を持ち、相互に謙虚であったことで、とても旨く行っていた、このような理想的な外交を今の時代に期待したいというお話を頂戴しました。

また、馬場先生(スローフード協会)に乾杯の音頭を取って頂き、更に、広田様(ピアノ製造&調律士で東日本大震災の震災ピアノの復元に貢献なさった方)には『千の風になって』をご披露頂き、途中川手さんへの想いで一杯になられていらっしゃいましたね。

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それから、ワインを最初から最後までサービスしてくださった竹平ソムリエ、ワインクイズで盛り上げてくださった瀬戸さん、皆さまのご支援で本当に温かい会が開催でき、ここに感謝申し上げます。

来月からのLunch Time Tasting会も盛り上げて参りますので、皆様もご参加お待ちしております。   

(K.M)






2016年5月17日 (火)

西村 暢夫

 

 古代ギリシア・ローマの食文化の三大要素はパンとワインとオリーブ油だとされています。パンとオリーブ油は人間にとっての基本的栄養素であり、すんなり理解できたのですが、ワインが入っていることに少し違和感がありました。ワインは酒の一種で、食べ物ではないというとらえ方をしていたからだと思います。

 ところがイタリア人のワインの飲み方に注目しますと、食べ物を口に入れ、噛んで、飲み込むと、次にワインを飲み、また食べ物を口に入れるというように、食べ物とワインが一体化しているのです。ワインと食べ物はお腹の中でアマルガムになるのです。

ルネサンス時代の大知識人であるプラーティナが著わした「真の喜びと健康について」という本の中に「ワインについて」という項があります。書き出しは「ワインのない夕食にしても、昼食にしても、そういう食事は楽しくないばかりか健康によくない」という文章から始まっています。

 ワインを食事の基本的な一要素として重要視する思想は、ルネサンス時代に始まったことではありません。パンとワイン、それにオリーブ油が食の三大要素とされた古代ギリシア・ローマの食文化からずっと続いているのです。

 古代ギリシアやローマの人々は、ワインをただのアルコール飲料とは考えず、声明を維持する、健康に欠かせない飲料ととらえていたのです。だからこそ、キリスト教では、ワインをキリストの血の象徴ととらえ、パンをキリストの肉体として尊重したのだと思います。

 西暦11世紀末に南イタリアのサレルノにあったヨーロッパ最古の医学校で変種された「サレルノ養生訓」(佐々木巌訳、解説。柴田書店、2001年)にはワインについての話がいくつも出てきます。

 第11話に「ワインの効用、その1」が入っています。そこに「よいワインを飲むと、それだけよい体液が生まれる」という記述があります。イタリアの古い話に「よいワインはよい血を作る」というのがあるように、品質のよいワインは最良の体液を生むと考えられていたのです。

 第15話の「ワインの効用、その2」には「水だけ飲むことを日課にしている人もいますが、そういう人には黙ってひとりで飲ませておきましょう。水や少量のビールが健康の敵で、よい消化を妨げるのは、疑問をはさむ余地もない事ですからね」と消化には水よりワインがよいのだと述べています。

 また消化の問題については、第14話に「ワインを加えれば、羊肉がよい食物にも。薬にもなるように、ワイン抜きの豚肉はあまりよい食べ物とはいえません」というのがあります。訳者の佐々木巌先生は豚肉や羊肉は脂っこいので、ワインを飲みながらでないと消化不良を起すことがあることを、サレルノ医学校の医者たちは知っていたのだと解説しておられます。

 この「サレルノ養生訓」の日本語版は佐々木巌先生が英語版(1607年、ハリントン版)から翻訳されたものですが、2001年に柴田書店から出版されて以来、すでに絶版になっていて入手は大変困難になっていました。

 そこで「新サレルノ養生訓」を出版したいという佐々木巌先生の希望を元に、ラテン語の原典を参照しつつ、イタリア語版からの翻訳を、翻訳家の森田朋子さんにお願いし、新しい解説を佐々木巌先生にして頂くことにし、目下作業が進行しております。出版元は(株)文流です。