2017年4月17日 (月)

西村暢夫先生クロニクル第2回(全4回)

文流の西村会長(当IVS Japanの監事、イタリア大騎士の称号、イタリア文化研究家、伊和中辞典(小学館)編纂者ほか)が、イタリア文化普及にご尽力なさった経緯を記事に纏めさせて頂きました。

これはIVSJapanアドバイザー、ジャーナリストの伊藤宣晃さんのご協力により、この度記事が完成したものです。

全4回 毎週日曜日にHPへ掲載して参ります。

今回は第2回目をお届けいたします。 

(第1回の記事はこちら


  

IVS Japan 監事 西村暢夫クロニクル la Biografia di Nobuo Nishimura

リストランテ文流 会長、伊和中辞典(小学館)編纂者

企画・構成 IVS Japanアドバイザー ジャーナリスト 伊藤宣晃


★目録が朝日新聞に紹介されて大反響

 当初はイタリア語学科の教員や生徒向けに本を売ることにしました。月1回、入荷した書籍の無料の目録をつくり、読者になってくれそうな人たちに配ります。
 幸運なことに、ダンテの研究者の三浦逸雄さん(先ごろ亡くなった三浦朱門さんの父)、イタリア文学者の阿部史郎さん、黒田正利さん、後に京都大学名誉教授になる野上素一さんなど、そうそうたる方々がお客さんになってくれました。
 そうして月に1度つくっていた目録のことが、たまたま朝日新聞で紹介されます。反響がすさまじかった。新聞を見た全国の読者から、その目録を送ってほしいとの問い合わせがきました。200件くらいだったでしょうか。音楽や法律など、多岐にわたるイタリア研究者からのものでした。
「この仕事で、食べていける」。そのとき私は、そう確信したことを覚えています。

★人に恵まれて順風満帆な社長業

 イタリア書房での事業が軌道に乗った私は、本の街・神田に出店したいと願うようになります。でもさすがに家賃が高い。躊躇する私に、手ごろな物件を斡旋してくれたのが先に述べた三浦逸雄さんです。おかげでいよいよ会社は、神田の雑居ビルの3階に移転します。1959(昭和34)年1月のことです。
 ビルの前にイタリア三色旗を飾らせてもらったのですが、当時は本当に珍しいことで、これが功を奏し、何だこれはとさまざまなお客さんが訪れるようになりました。
 七海吉郎さんという近所の専修大学の図書館長がまとめて本を買ってくれたりし、イタリア書房の存在がきっかけでイタリアに興味を持つ人ができるようになっていったのです。扱う本のジャンルは美術や建築、政治にまで広がって、順風満帆な社長業でした。

★頼まれて通訳としてイタリアを初訪問

 そんな私に、また転機が訪れます。
 明星食品の創業者、奥井清澄さんは、自社を麺やパスタの総合食品メーカーにしたいと思っていました。パスタといえばイタリアです。現地で見て食べて、パスタマシンを買い付けたい。それには通訳が必要だ。イタリア語の通訳を探していた奥井さんは、知人の武蔵野美大の先生を通じて私に声をかけてきました。
 費用を払うから一緒にイタリアに来てくれとの誘いに、イタリアに行ったことがなかった私は喜んで応じました。1962(昭和37)年のことです。
 そうして私は初めて憧れの国に行くことになります。
 オランダの航空会社の飛行機に乗り、アンカレッジとアムステルダムを経由して降り立ったミラノから、私たちの旅は始まりました。

★1人残ったイタリアで料理とワインに開眼

 憧れの地で私は、たくさんの失敗をします。
 ホテルで奥井さんとテレビの映画番組を見ていたら、彼がセリフを訳せと私に言う。
 実は、私はネイティブのイタリア語が思ったほどわからなかった。訳せないとも言い出せず、適当に訳していたら当然、私の訳どおりにドラマが進展しません(笑)。奥井さんは、がっかりしたと思いますが、今さら通訳を変えられないと諦めたようです。
 パスタの包装機を買い付けるとき、リラの単位を1ケタ間違えて奥井さんに訳してしまい、その値段なら10台買おう、となったものの後で慌てて電話して1台に変更してもらう、なんてこともありました。
 私のおかげで珍道中でしたが、奥井さんは起業家としてたくさんの話を私に聞かせてくれました。戦後の闇屋でボロ儲けした話、会社経営はゲームのように面白がれ、そんな話を聞かせてくれました。その後10年たたずに奥井さんは亡くなるのですが……。ひととおり買い付けを済ませた奥井さんは先に帰国し、私は1人イタリアに残って全国を一周して食べ歩くことにしました。
 そこで私は開眼してしまうのです。

(第3回へ続く)
 
 
IVS Japan 
一般社団法人日本イタリアワインソムリエ